前回は直情的な感想だったので,少々論考っぽく? いい加減ですが。間違いがあったら流してください。
今回の”時かけ”は,藤子F不二雄ファンならばかなりの確率で,なにがしかが心の琴線にヒットするのではないかと思う。作品の内容が似ている,パクっているというのではなく,作品構築に対する姿勢が似ていて,それがFファンのDNAに訴えかけてくるのではないかと。
僕はFファンでも,とくに昭和50年代の前半の作品が好き。F先生はロジカルな作品を多く残しているが,頭で考えたロジックと,直感的に差し込まれたロジックは,おなじく論理的であっても作品の躍動感が全然違う。昭和55年ころを境に,その分岐点があると思う。エスパー魔美にそれが顕著に現れていて,週間連載方式を終え,不定期の読み切りシリーズとなった5〜6巻で,作風の変化がよく分かる。流れるように進むテンポから,静的な作風へ。演出はドライでつきはなしたような感じから,わりと安直に泣きに訴えるものが多くなっていくように思う。
で,今回の”時かけ”は,僕の好きな50年代前半テイスト,が感じられます。 ・不必要におおげさな演出は入れずに,ロジカルに淡々と進行。 ・ある条件さえ満たせば,きわめて安定的に発動する超常現象。 ・日常の機微を大切にした展開。
超常現象は,クライマックスの状況,もしくは理屈はよく分からないが奇跡が起こった!的に使われることが多いように思いますが,”時かけ”や”魔美”では「ある条件を満たせば起こるもの」としてあっさり流しています。真琴はタイムリープ,魔美はテレポートですが,両者ともトライ&エラーを繰り返して,発動キーを見極めるや,手法を洗練させ,自販機でジュースを買うかのように,日常的に能力を使うようになります。タイムリープ先,テレポート先の身の安全への懸念に対するフォローも,両作品とも「どうやら致命的な事態にはならないらしい」という感じにサラっと流してあるのも面白い。方法の洗練度ではテレポート用の簡易デバイスを作ってしまった魔美に軍配が上がりますが,まぁそれはそれとして(笑)
両作品とも超能力を日常化している。本当に描きたいものは,その先にあるもの。 何か超常的な能力を得てしまったとき,人はどう行動するか。ポジティブ思考の少女の行動のシミュレーション的な展開が非常に楽しく,作品の肝になってくる。その辺がF好きの琴線に触れるのではないかと思った次第です。
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追記 本編中では,暗示的にしか語られていなかったように思いますが,オフィシャルHP等を見ると美術館で絵画の修復師をしている”魔女おばさん”が,筒井康隆のオリジナル版の主人公,芳山和子であると分かります。(何も知らない人が見ると,どう思うのか,非常に危ういところであるように思いますが。) 原作を読み返してみたところ,きちんと和子に妹がいたりして,ちょっとニヤリな感じでした。
ラストでは,未来から来た少年が正体を明かし,そしていつか必ず帰るから,と和子に約束して去っていく。今回の映画の時点では,まだ現れていないわけですが…。 F作品でも同じようなシチュエーションがありましたね。成人したパー子が,スーパー星へ留学したパーマンの帰還を今なお待ち続けている。 …というくだりが別作品の”ドラえもん”中でにそれとなく描かれており,なかなか感動した記憶があります。 | |